潜在意識とお金の関係がみるみるわかるシリーズvol,2
さて、前回の記事の続きです。
たったひとつ、言えることがあります、と書きましたね。その続きをご紹介しましょう。
(こちらは、2015年8月30日のメルマガ記事抜粋です。)
自由度を高めることが最も大切。
たったひとつ、大切だと言えること。それは、「収入、支出のどちらが多い、ではなく、どちらも共に大きく広くなっていく」ということ。
支出が多くって収入が多ければいい、という意味ではなく、「使える自由度、受け取る自由度」が高まることがお金と自由に付き合っていく方法だと思うのです。
それと潜在的自己視点、潜在的他者視点に合わせて考えていくとこうです。
『自分に対する価値の範囲を広め、他者が自分に対して評価する範囲も広める 』と。自分に対する評価を、少しずつ広げていくのです。
「ここがいい」と思えなかったところを「ここもいいかも」と思えるようになっていく。「こういう自分は評価していなかった」と思うのがあればそれに気づき「こういう自分もあったんだ、いいかも」と思ってみる。
そうすることで、自己評価の範囲が広がります。逆も然り。他人が「自分のここを評価している」と思う範囲をどんどん広げていきます。
「あ、こんなところも、見てくれているんだ。」「あ、こんなことも、気付いてくれているんだ」「あ、私のこんなところも、評価してくれているんだ」という風に、領域を広げていきます。
そうすると、自ずと収入と支出の範囲が広くなる。「可動域」が増える、ということなので自由度が高まるのです。(これにしかお金使えない!ここからしかお金は受け取ってはいけない!がなくなっていくということ。 )
ゆっくりで構いません。すぐにできなくてもいい、なくならなくてもいい。少しずつ変化していくのをぜひ、意識してみてくださいね。
評価、というものとの付き合いかた
『自分を評価する』というのは、良い評価をすることだけではありません。他者に評価される自分を許す、というのは良い評価も、悪い評価も、両方受け入れていくことです。
別の表現をするならば、それは「他者の反応」を増やすこと。そして、「たくさんの自分を知ること」(自分への反応を増やすこと)でもあるのです。
それに対して恐怖を抱いてしまうのが普通かもしれません。だれでもやっぱり、褒められたいですもんね(笑)でも、評価、というのは良いものであれ、悪いものであれ、「関心」でしかありません。人は、関心がなければ反応も評価もしないのですから・・・
素直に両方受け入れて、良い評価も、悪い評価もされ得る自分を信じてみましょう。お金のことだけじゃなくて、すべてのことが循環する気がします。自分の中のバランス感、よく観察してみてくださいね!
メルマガ抜粋ここまで
さらにこのメルマガには続きがあります!それも一緒にご紹介しますね。
神と化した金を紙に戻すために。(2015年9月17日メルマガ)
さて。まずわたしがいつも感じる結論を。
『すべての人は豊かであるが、すべての人がお金持ちになれるわけではない。』と。これは差別ではありません(笑)
お金過信の人にとってはなかなかこの事実が受け入れられません。差別されているような気がしてしまいます。
お金があれば、幸せになれると思っている人もあまり「金持ちと貧乏」の違いを知りたがりません。なぜなら、お金持ちと貧乏の間には何も差がないからです。
内面事情を知れば知るほど、お金持ちに対する気持ちが幻滅してしまうほど(笑)表面的ではわからないことがたくさんあります。
お金持ちと貧乏の間には何も差はない。
それは「可能性」という意味として金持ちであっても貧乏であってもその間に可能性の違いはないのです。同等の可能性を持っている、と。人生の価値は同等である、と。
まずはここから理解してもらうとこのあとが進みやすいと思います。
あなたはお金持ちと貧乏の違いを、はっきりいうことができますか?
・・・どうでしょうか。少し考えてみてください。
・・・はい(笑
多分、多くの人がちゃんとこれに答えることができないと思います。もっと言えば、「お金に苦しむ」人ほど、実はお金持ちと貧乏の違いをはっきり口にすることができません。
どこかでその二つには何か決定的な違いがあるに違いない。そう思うからこそ、お金持ちの思考やお金持ちと貧乏の間に大きな溝を作ってしまうのです。
また、お金に苦しむ人は、こころのどこかで「お金持ちと貧乏」の間にあえて溝を作りたがります。その二つが同じものだなんて、思いたくないし、思ってしまうと・・・・みたいな心理的つっかかりがあります。
どうでしょうか。せっかくなので、あなたとわたし今日はそこらへんについて、意識してみたいと思うのです。
お金もちと貧乏の共通点
わたしは冒頭で、「お金持ちと貧乏の間に違いはない」と言いました。でも、実際には違いがありますよね?単純ですが、
お金持ちはお金を持っている
貧乏はお金を持っていない
ここに決定的な「お金の存在感」があることがわかります。この二つの違いが生まれてしまうのはお金というものが神になったときだけ。それを外してしまえばお金持ちと貧乏の共通点がたくさん浮かび上がってくるわけです。
では、実際にイメージしてみましょう。お金持ちと貧乏の共通点をあげてみます。みなさんは何が思いつきますか?全く思いつかないですか?
どうでしょうか?これまた少し、考えてみてください。
・・・
さて、何が浮かんだでしょうか。ここには正解はありませんから、なんでもいいのです。お金持ちと貧乏の共通点、わたしなりにいくつか挙げてみるとこのような感じ。
・感情があること
・幸せを感じたり、不幸を感じたりすること
・体験する自由
・思考の作り、脳の働き方
・細胞の数、細胞の仕組み
・その人にしかできない経験
・電車の動くスピード(笑
・時間が24時間であること
・1年が365日であること
・デブになる可能性(笑)
・パソコンが壊れる可能性(笑)
・風邪をひく可能性(笑)
・恋に落ちること
・愛を知ること
などなど…書き出したらキリがありません。「可能性」という視点ではお金持ちも貧乏も、どちらも豊かです。
なぜなら、お金持ちにはお金持ちにしかできない経験があります。貧乏には、貧乏にしかできない経験があります。お金持ちになったら、本当の貧乏は経験できません。貧乏になったら、本当のお金持ちの経験はできません。
ほら。「経験できること」の数をあげていけばお金持ちも貧乏も、同じ数だけ持っているってことなんです。
豊かであるには条件を問わない
これをわたしは「豊かさ」だと思っています。もっというなら、
・お金持ちも貧乏も、両方経験できる
これが、心の豊かさでもあると思っています。
だから、貧乏になりたくない、って思うより貧乏でも、お金持ちでも、どちらでもいいし、どちらにもなってみたいし、そして、どちらにも、なれる。これがお金持ちよりもっと豊かな「富持ち」だと思います。
あくまでもこれは一つの体感を引き起こしたくて説明している、というか。ここまで書いたとしてもやっぱり人はお金持ちになりたい、と思うし、お金がほしい、貯金したい、安定した収入がほしい、と思ってしまう生き物です。だから、それがダメなわけではありません。
ただ、今みなさんの中で少し考えてもらいました。お金持ちと貧乏は違うものなのか?と。
それだけで少し、お金のトリックが外れます。お金という架空の神から、少し、解放されるのです。(人によってはそれがかなりの解放になることも。)
お金過信をしていると、わたしたちの精神は一生安定しません。なぜなら、「お金は誰のものでもない」から、それにしがみつくことができない、と潜在的に知っているからなのです。
そりゃあ、不安定でしょう。だって、コンビニでちょっと使ったらさっき入ってきたお金がすぐに別のところに流れる。そんなものに安定を求める方がまずおかしい。
だから「お金に対する精神的な安定」を求める方が、まずおかしいということなのです。
『お金は不安定なのが普通』だから。それに抱きついていれば不安定になるわけです。
お金に振り回されなくなるのを目指すのはやめる
これは「お金に振り回されることはなくならない」と言っているようなものです。ええ、はい、そうです。お金に振り回されなくなることは、ないのです。それは、お金が安定することがないから。
昔、アラブの石油王の話を聞いたことがあります。お金がありすぎて、逆に何にお金を使ったらいいかわからず、結果的に、お金に対して苛立ちを覚える、とかなんとか。まったく、贅沢な話ですね(笑)
わたしはそういった意味でも「僕はわたしはお金にまったく不安がありません」とか「わたしはお金にふりまわされません」とか言う人をまったく信用しませんね。
だって、それって例えば「わたしは不安を感じることがないカウンセラーです」みたいに、「んなわけあるか!!」という感じで(笑)
お金というものはそもそも不安定なのだから、それと付き合うときの心というのが不安定なのは何も問題じゃない、ってことでもあるのです。
だもんで、お金に対する不安を解消する方法なんて、ないと思っていますし、それをハウツーとして解くことはできますが、結局その不安定さにどこまで「慣れるか」だけだと思うのです。
つまりそれが、ある種の「付き合い方」です。
お金という不安定さに慣れるためには、自分自身の不安定さに慣れる、というか割り切る、という感覚が大切になってきます。
「キタキタキタキター!減るのが怖い病!!」
「キタキタキタキター!貯金したい病!!」
くらいにみんなが言えるような社会だといいと思うんですが。あなたはいかがですか?わたしは、そういうときブツクサ言うようにしています(笑)
あーキタキタ!と。で、終わり。問題視しない。再発しても、問題視しない。お金に振り回される自分と戦わない。そして「放し飼い」するわけです。
「ほらよ、言えよ、走れよ、嫌がって走り回れ、大草原を!」くらいの勢いお金に対する不安定さを放し飼いにするわけです。
このとき、ものすごく、豊かです。ものすごく、大胆で、しなやかで、それでいて広い。そのうち飽きて、不安定さは走り疲れて結局静かになるのです。
そのときにお金のことを考えてみると、なぁーんにも感じない、ただの紙、ただの数字と化してしまいます。
お金というたったひとつの道具を使いこなす
最初の方で、『すべての人は豊かであるが、すべての人がお金持ちになれるわけではない。』と書きました。
貧乏が運命の人もいる、と言いたいわけではありませんがお金をバンバカ稼いでいる人が特別ではないと言いたいわけです。
逆に言えば、貧乏に問題視することで貧乏を特別化するつもりもありません。「そういうのを経験している」だけであり、自分が「そこに何を見出すか」だけだと思っているので別に金持ちになりたいとも貧乏になりたいとも、わたしは思わない。
ただただ、自分で在りたい。
そのためにお金が必要なら稼ぐし受け取るしもらうし借りるし。
ただただ、自分であるためにお金が逆に必要ないのであればそれを手放し、解放し、ない状態にもするし。
自分の暮らしのため、生きていくためにお金は必要ですが、それって結局「自分が幸せであるため」のひとつの道具にしかすぎませんよね。
だからこそ、お金というのは自分が自分であること、幸福状態にしてくれる『たったひとつの道具』です。
じゃあ、他の道具を書き出してみましょう。
▼自分が自分であり、自分が幸福を感じるための道具
・おいしい食べ物、おいしい時間
・好きな人たちとの楽しい時間
・気持ちいい睡眠
・書きたいことを書く時間
・大切な人たちの笑顔
・研究したいと思える分野
・家
・スマホ
・お金
・パソコン
・ペンとノート
・自分の愛を感じるための仕事
・お客さんたち
・素直になんでも話せる環境
・本
などなど(意外に、少なかったりする)
…うーん、こんな感じでしょうか。こうやって書き出して並べてみると、お金ってそんなに大したことないな、って思うんです。
でも、これらを得るために「お金は便利だ」ってこと。お金の価値なんて、そんなものだと思います。(便利ってだけ)
本当はお金がなくたって得られるものばかりですが、お金がないといけない、と思うのはその便利さを「過信」しすぎている、ということなのです。
あなたはいかがですか?
お金って、道具を手に入れるための交換ツールなのですが、ほしいものって結構お金がなくても手に入れられる気がしませんか?買えなくてもくれる可能性がある。お金がなくても笑顔は見に行ける。購入しなくても本は読める。
貸してください、と言えばペンとノートくらいさくっと手に入れられるわけです。
どうでしょう。「そんなもんか」と思えたとき、お金の使い方がもっと上手に(自分らしく)なります。ぜひ、イメージしたり、書き出したりしてみてくださいね。
メルマガ抜粋おわり
いかがでしたか?
このように、お金との関係性の中で新しいものが見えてきます。
自分自身に対する接し方や、自分へ下している評価。その基準や、他者から受けている「と思い込んでいる評価」に気づくことができます。
そこからはじめてお金との対等な付き合いがはじまるでしょう。資本主義社会にいる限り、貨幣制度から逃れていきることは難しいです。
資本主義社会、それはつまり、お金に支配された世界。でも、それを悪く捉えるか、それを自分なりにどう生きようか?と肥やしにするかは別の話。
わたしは貨幣制度に対しても、資本主義社会に対しても、悪いところを見ずに、その中で自立したお金マインドを持てることが最も大切だと思います。
ネタが尽きないお金の話。あなたはこれからお金とどう接していきますか??
そんなことを意識してみてほしくて抜粋した、過去のメルマガでした。