コア・本質とは何か
身体から解放されるとき、人はそれを直接体験できる。ー中略ー
それに対し、この領域を体験したことのないものは、懐疑的になったり、ときには無関心なままに置かれてしまうのだ。ケネス・リング『いまわのきわに見る死の世界』
私たちのコア・本質と呼ばれるゾーンを一言で説明することはできません。それは、体感するゾーンであり、その体感を言語で表現するにはあまりにも情報量が多いからです。
しかし、誰もがこのコア・本質的なゾーンにたどり着くことができます。また、それは日常の中に、あるいは普段の生活の中にいつだってチャンスが眠っています。
コアな領域にたどり着くと、わたしたちは「個人的な自意識」が解釈・判断していた現実から解放されます。つまり、個人的な自意識が生み出していた問題や不安、悩みなどからも解放されるのです。
どうしてこのようなことが起きるのでしょうか?果たしてコア・本質的な領域とはどのようなものでしょうか。
現象を、現象のままに見れない人間の脳みそ
コア・本質のゾーンを最も適切に表現するとすれば、それは個人的な範囲を超えたゾーンである、ということです。また、その領域から飛び出る、ということは個人的な記憶や信念を超えるということでもあります。
わたしたちは普段、どんな出来事も、どんな現象も、どんな言葉も、どんな光景も、すべてそのままに見ることができません。
何も解釈せずに、何も色付けすることなく物事を判断することは不可能なのです。
人間は思考の生き物ですから、何かを見たときに過去のデータからそれを推測し、判断や解釈をつけて認識します。
例え目の前にあるのがただのリンゴでも、人それぞれの中にあるリンゴに対するイメージや記憶は微妙に違いますので、リンゴという物質は同じでもそれによる個人の判断は別ものです。
たとえば、あなたの前で交通事故が起きたとしましょう。その交通事故に対して、目の前で「交通事故が起きた」と思うのは、それに対する判断材料がすでに潜在意識の中にあるからです。
自分の記憶の中にないものを判断することはありませんので、交通事故を見たとしても何も解釈をつけなければそのまま忘れ去られ、意識に残ることはありません。
しかし、かつて交通事故をしたことがあった場合、目の前で起きた交通事故と、個人的な体験のつながりが強くなります。そのような場合は、強く意識に残り、それを強く認識します。
ただし、交通事故は目の前でただ起きただけであり、ただの物質と物質のぶつかり合いです。これに対して「良いことだ」「悪いことだ」の判断が起こるのは、その人の中でだけです。
このため、交通事故がおきたのは目の前で、でしょうか。それとも「その人の中で」でしょうか。
現実はあなたの中でしか起きていない。
このようなことを考えるとき、難しく解釈する必要はありません。
意識に強く残り、存在感がある現実は目の前で起こっているのではなく、その人の中で起きている、と考えるだけです。
この考えを持つことで、自分の目の前で起きている出来事の中で、特に印象的なこと、特に強い意識が残るもの、存在感があるものは自分の作り上げた現実である、とすることができます。
個人的に作り上げた現実というものは、個人的な信念や価値観、色付けされた記憶、というこれまた「作り上げられたもの」によって構成されています。
つまり、すべて「作り上げられたもの」であって、目の前にその現実が存在するかどうかといえば、存在しない、ということになるでしょう。
例えば、あなたはある一通のメールをもらったとします。実際に起きた出来事は「メールをもらった」ということです。
しかし、そのメールがただのメールではなく、あなたにとって嫌いな人からもらったメールだったとしましょう。そのときに「メールをもらった」という現象は「嫌いな人からメールをもらった」という出来事に変わります。
さらにそこから、「嫌いな人からメールが来て嫌な気持ちになった」という体験に変わったり、「嫌なことがあった」とひとくくりにまとめられたりします。
このように人は、自分の中にある素材を、実際に起きた出来事(実はただ起きているだけで何も起きていない)に付け加えて、再度、自分の内面でそれを体験しているのです。
このような個人的に作り上げた体験や解釈から離れ、物事を全体的に見ることができたとき、わたしたちはコア・本質的な領域と触れ合うことができます。
コア・本質的なゾーンが、愛で感謝でできている理由
RYCmethod®や、ここで語られるすべては、コア・本質的な領域にその人が触れると、愛と感謝の視点を持つことになる、というように定義しています。
これはなぜなのでしょうか。
そもそも、愛や感謝というものから定義をしていきたいと思います。
愛の状態、とは
愛の状態とは、「愛着を持っている状態」「愛情を持っている状態」とは少し違います。
愛の状態とは、一貫して「個人的な解釈や判断を必要としない」状態です。別の表現で例えるなら、すべての物事をありのままに見ては、それを自分の中に止めることなく流していく状態。
例えば公園に生えている様々な木々たちを見てみましょう。その木々たちはどれも違った姿形をしており、その枝の生え方には一貫性がありません。
木々をみていちいち、「あの木の生え方はダメだ」とか「あの枝は意味がない」とか「あの木はあっちの木より劣っている」と判断することはありませんよね。
そのようなことをしてもほとんど意味がないですし、また自然なものに対して個人的な判断や解釈をつけて答えを出すことはできないからです。
わたしたち人間もまた、自然の一部です。そのように捉えたとき、本来は木々を観察するように、その姿形をあるがままに見ては、意識の中に止めることなく流していくことができる。
しかし、木々ではなく自分の生活やお金、仕事や恋愛、人間関係となるとそうはいきません。判断し、解釈し、あるがままの姿形を歪めたくなってしまうのです。
愛の状態、とは、あるがままなものを捉える視点で、それらを変えることも変えないこともせず、ただそこに存在する、という状態でもあります。
非常に抽象的で、説明が難しい状態です。なぜなら、そもそも愛の状態について、解釈をつける必要さえないから。
そのため、ここで説明している愛の状態とは、ごく一部の解説であり、その全体ではない、と捉えてみてくださいね
感謝の状態
感謝というものは、するものではなく湧いてくるものです。もちろん、意識的に感謝することもありますが、本当に心が感謝していない場合も多くあります。
自然と感謝がわいてくるとき、わたしたちは本質に触れていることになります。
なぜなら、溢れてくる感謝の気持ちは個人の領域を超え、全体像が見えているときにしか出てこないからです。
特定のもの、人、出来事に対する感謝の気持ちを思い出してみてください。そこには、特定のものに対する気持ちだけではなく、全体に対する感謝があります。
例えば、ある時、わたしは失敗をしてとある人物からお叱りの言葉を受けました。そのときに、個人的な感情としては嫌な気持ちになったり、悔しい気持ちになったりしました。
しかし、少し時間を経ると、急に色々なことに対する気持ちが溢れ出てきました。
今までのこと、かつての自分、できなかったこと、少しずつできるようになるために努力したこと、そしてこのときの失敗。
点が点と結びつき、線になり。それが過去と未来とを繋ぎます。そのときに、失敗は失敗だったけれども、その失敗を生んだ経緯やきっかけ、そしてその失敗が結ぶ未来。
すべてがつながったときに、過去にも未来にもありがたみが生まれ、自然と感謝の気持ちが湧いてきました。
このような経験を言葉で表現することは難しくもあります。しかし特徴として、感謝の気持ちが自然と溢れるとき、わたしたちはすべての過去、すべての未来にまで感謝することができるのです。
そこには個人的な解釈を超えた、「ただ、ただ、ありがたい」という気持ちがあり、これは愛の状態にも似ているのです。
コアとつながるのは一瞬だけでも良い
コアや本質的な領域とつながると、個人的に判断していたことや、過去の後悔・罪悪感などによって勝手に作り出された「問題」などが見えなくなります。
しかし、それらを継続することが大切なのではありません。24時間、365日ずっとそのような状態であり続けようとする必要はないのです。
わたしたちはどこまでいっても、思考の人間。物事をパターン化して記憶し、いざという時のために貯金をするように、いざという時のために昔のデータを残しておく。
目の前にあるものを歪ませて解釈し、自分だけの内的体験をする。そして、それを本当の現実だと勘違いする。
このプログラムから抜け出して生活することはできません。実際にできることにはできるのですが、そうしてしまえばその人個人が体験するオリジナルな人生はなくなってしまう。
ただし、コア・本質的なゾーンとつながることができると、すべての勘違いから解放されます。
一瞬にして、目にするもの、耳にするもの、口にするもの、肌で感じるものが変わり、自分の狭い思考から解放されるのです。
大切なのは、この領域といつでも繋がれる状態でいること。つまり、使い勝手が良いように、自分で意図的にコア・本質的な領域にアクセスできることなのです。
皆さんにとっては、あまり縁のない話に聞こえるかもしれません。
しかし、いつだってコア・本質的な体験はそこにあって、あとはそれへの架け橋を見つけるだけなのです。
RYCmethod®というものは、その領域にアクセスするための架け橋のひとつ。
潜在意識を学ぶことで、思い悩んだ時、苦しくなった時、つまり自分が無意識に作り上げた仮想現実によって苦しめられているときに、自分を解放することができる。
そういうツールの一つなのです。